絵画

images 絵具などの特定の描画材料を用いた描画を、意図的に特定の支持体に対して行うことによって成立したもの。 板や布に描かれた油彩画やテンペラ画、フレスコなどで描かれた壁画を指しています。 紙に描かれた水彩画などは含めますが、木炭や鉛筆で描かれたもの(デッサン)は含まれません。 油彩画の初期には板に描かれた、油彩画の以前にはテンペラ画もあったようです。 また額に掛けて壁に飾るのは新しい様態で古くは壁に直接描く技法がありました。 そういった古いものも絵画として認識するためには、「支持体の上に、絵具、すなわち顔料とバインダーを練成したものを筆などにより塗布して構成されたもの」という定義が考えられます。 この定義を厳密に適用すると、漆喰を直接染色するフレスコは絵画に含まれません。 しかしフレスコ画も広い意味では絵画と認識されていました。 浮き彫り、タピストリーなど染織、ステンドグラスなどは絵画ではありません版画、写真も絵画には含まれていません。

東洋美術や日本の美術など、ヨーロッパ以外の美術にヨーロッパ由来の絵画という概念の適用には困難が伴います。 たとえば東洋美術には書画という語がありますが、書は絵画ではありません。 現代において絵画の概念の設定にも困難がつきまといますがその理由のひとつは新しい素材や技法の登場によります。 パステルや色鉛筆で描いても良さそうであるが、これは「ドローイング」として絵画とは区別されるのが一般的です。 では切り絵や貼り絵、コラージュはどうでしょうか。 パブロ・ピカソの1912年の作品『籘張りの椅子のある静物』には籘張り糢様の布が画布に直接貼り付けられています。 興味深い例として、イタリアのルーチョ・フォンタナの『空間概念』があります。 これは画布に切り目が入った作品です。 1960年代後半のイタリアのアルテ・ポーヴェラ、同じころの日本の「もの派」の作家たちもさまざまな素材を作品に用いていました。

images (3) ◆素材
・支持体(絵を支える物体)

布、特に、帆布。亜麻布や絹。

石版
鉄板
ガラス
段ボール
食器などの工芸品
建造物などの壁面や天井

images (2) ・絵具(液体着色材料、及び、固体着色材料)
油絵具
水彩絵具
パステル
クレヨン

・その他
木炭
鉛筆

インク

ダウンロード ◆技法
油彩
水彩
ガッシュ
ボディーカラー
テンペラ
ディステンパー
日本画
水墨画
合成樹脂塗料
images (4) フレスコ
パステル
版画
ドローイング
チョークアート
ペン画
グレイズ(絵画技法)


結婚祝いの作法

結婚祝いに何を選ぼうかと迷ってしまう人も少なくないかもしれません。しかし、結婚祝いの場合、大抵は、その人のことを前から良く知っているという立場にあることでしょうから、ブライダルとなると他のお祝いとは多少、異なってくるでしょう。それは、本人に新生活で必要なものを直接聞いてみる、ということです。お歳暮やお中元などでは、何が欲しいかなど、相手には聞きづらいものですし、たとえ聞かれたとしても、正直には答えないことでしょう。しかし、結婚祝いを品物にする場合には、新生活のためのもの、と目的もはっきりしているので、聞きやすいですし、聞かれた側も答えやすいものです。友達や職場の仲間で、お金を出し合って、大型の家電製品や家具などを選ぶというケースもよく見られるようです。ただし、新しい生活に使うからといって、包丁やナイフなど、縁が切れるようなイメージがあるものは選ばないようにしましょう。また、できれば、品物だけでなく現金も添えたいものです。

華道の代表的流派

PN2013010501000637.-.-.CI0003 池坊・・・開祖・池坊専慶が京都の六角堂池坊の僧侶だったことに因んでいます。

御室流・・・御室御所「仁和寺」を家元とする流派。

桂古流・・・桂宮家華務職を流祖とする流派。 

華道遠州・・・江戸後期のマルチアーティスト・茶人の小堀遠州を祖としています。

嵯峨御流・・・嵯峨御所「大覚寺」を家元とする流派。 

青山御流・・・公家の末裔、園家(伯爵)により相伝されている流派。

正風華道・・・盛花、千変万化を特徴とする流派。

月輪未生流・・・皇室の菩提寺「泉涌寺」を家元とする流派。 

日本生花司 松月堂古流・・・公家の末裔、植松家(子爵)により相伝されている流派。

八代流・・・室町幕府8代将軍足利義政を高祖とする流派。

山村御流・・・山村御殿・圓照寺を家元とする流派。


技術

20100104_1330472 ・花材取り合わせの考え方
花の色や質感、季節を考慮して組み合わせる事を「花材の取り合わせ」といいます。流派によって細やかに定めを規定していますが、基本的には主材、配材に区分し、主材には夏ハぜなど「木もの」、配材には菊やハランなど「花もの」に加えて「葉もの」を充てます。しかしいけばなでは季節感が重要で、夏ハゼは春から秋の三期に使うため季節を特定するのは難しくなります。また菊やハランも現在では四季に出回ります。そのためこの組み合わせでは春の作品なのか秋なのか、季節を感じさせない懸念が残ります。ところが夏ハゼに新芽の初々しい姿があれば春らしさが強調されるでしょう。また、葉が紅葉していればおのずと秋らしく感じます。菊も春菊、夏菊、秋菊、寒菊と云うように四季感のある種類を使えば問題なく季節を思い起こさせます。このように季節を意識した視野で素材を捉えると、同じ花材でも訴える力は随分変わります。ただ、いけばなでは季節重視だけではなく造型重視や色彩本位の構成があり、素材の組み合わせは作品のねらいやモチーフで異なります。このことから自然調(和風趣向)と造型(現代花、洋風趣向)とに大分され、構成の仕方で取り合わせを考えます。一方流派の定める古典花(伝統花)は完成された伝承いけばなです。したがって素材の組み合わせだけでなくいけ方、考え方には厳しく定めがあり自由な解釈による創作は一般にはされません。

・素材の水揚げ法
水揚げ法は花材の日持ちをはかる上で重要かつ不可欠ないけばな心得の一つです。科学的根拠と云うより、先人の経験からの知識によって伝承されることが主となっています。蒸散作用の抑制から、風にあてない事も重要です。 主な手法は「水切り」「注入法」「焼く、煮沸法」「砕く」「薬剤使用」「錫、胴の利用」などがあります。植物の生態を利用した朝切り、夕切りなどは採取時間が最重視され水揚げは極度にあがります。最近は温度と湿度を管理するストッカーを利用する生花業者が多いですが、このような管理法は極端な言い方をすれば切り花を冬眠させているようなもので、一旦外に出すと日持ちは悪くなります。とくに夏場は外気温との温度差が広く、汗をかいたように花や葉に水滴が溜まり蒸せさせるため消費者としては歓迎されない設備と云えます。

・諸道具
花器・・・材質は陶、竹、金属、木、藤、石、漆、ガラス、プラスチックなど。形は浅い水盤、横長、小判型、コンポート、壷、寸胴、創作器、雑器、釣り花器、掛け器など。
はさみ・・・主にワラビ手鋏が用いられています。
花台・・・敷板、卓台。その他、プラスチック、ガラス、布など。
剣山・・・素材を固定する道具。1センチ程度の長さの釘が無数に埋め込まれたもので鉛、アンチンなどを混ぜた重り部分から出来ています。昔は七宝、亀の甲と呼ぶ鉄で作られた蜂の巣状の形をしたものや、鶴や御所車、カニなど飾り物留具が使われていたそうです。
その他・・・いけばな用の小型のこぎり、利休小刀、金槌、針金、水揚げ鉄砲、霧吹きなど。また大作ではジグソー、電動ドリル、溶接機、チェンソーなど多岐にわたる大小の道具類が使われます。

華道

syogo_1 植物のみや、植物を主にその他様々な材料を組み合わせて構成し鑑賞する芸術です。 華道は「花道」とも表記し、またいけばな(生け花、活花、挿花)とも呼ばれます。 ただし華道という呼称は「いけばな」よりも求道的意味合いが強調されています。 さまざまな流派があり様式・技法は各流派によって異なります。 華道は日本発祥の芸術ではありますが、現代では国際的に拡がってきています。 欧米のフラワーデザインは3次元のどこから見ても統一したフォルムが感じられるように生けるとされています。 華道の場合、鑑賞する見る方向を正面と定めている流派も多くありますが、3次元の空間を2次元で最大限に表す流派もあります。 また華道は色鮮やかな花だけでなく枝ぶりや木の幹の形状、葉や苔となどすべてを花材とし鑑賞する点でも海外のアレンジの概念とは一線を画しています。

◆歴史
華道の起源は古代からのアニミズムの流れとして、採取した植物を住居などである空間にて再構成する行為に基づくという研究もあります。 植物は動物と異なり、切り落としても適切な処置すればある程度生命を維持することが出来ます。 こうした植物の特性に神秘を見たとも考えられます。 それは常緑樹信仰にも通じ、人間の手の及ばない神秘の力を花器の上で包括的に管理してしまおうとする試みであるとも考えられます。 華道の発祥は仏教伝来に際し花を献じる供花に由来するという説が有力です。また一輪挿しなどに挿した花を愛でる習慣は古くは平安時代あたりまで遡り、例えば『枕草子』などの文献史料からたどることができます。当初は既存の器を利用していましたが、後に専用の花器が製作されるようになりました。 華道の確立は室町時代中期、京都六角堂の僧侶によるものとされます。僧侶は代々池のほとりに居住していたことから「池坊」と呼ばれていました。そうした呼び名がのちに流派の名前となります。家元、宗家らによって江戸時代中期にかけて立花と呼ばれる型が大成されていきました。 その後江戸中期から後期になると、華道はそれまでの上流階級・武家階級のものから広く庶民のたしなみへと変化し生花を中心に広く愛さるようになりました。 今日の華道と言えば、江戸時代後期文化文政の時代に流行した生花、挿花のことを指すことが多くあります。 とくに江戸後期に大流行した曲生けと呼ばれた遠州流系では技巧の達人・名手が多く登場し、意匠を凝らした銅の花器や厳選された木材と職人技の塗り花台などとともに数寄者がこぞって花を生け、今もその意匠・デザインは引き継がれていることも多いです。また関西では未生流系、東日本では古流系などの流派から多くの流派に分かれていくきっかけとなります。 江戸末期から明治初期の頃、世界的なジャポニスムにより華道・生け花が欧州に紹介され、ヨーロッパのフラワーデザインにラインアレンジメントの手法として影響を与えました。 国内ではやがて花姿は時代の流れに即し、なげいれ花、盛り花などさまざまな型が編み出されました。 また異種花材として植物以外のあらゆる材料も「花材」として盛んに取り入れられています。


日本の書流

images (6) 和様書の流派の総称のことです。
平安時代中期の世尊寺流から分派した和様の流派が江戸時代中期、御家流一系に収束するまでを本項の範囲としそれ以外の著名な書流はその他の書流に記しています。 日本の書流は平安時代中期の和様の大成者、藤原行成を祖とする世尊寺流から始まり、鎌倉時代に入って主に世尊寺流から分派した数多くの書流が形成されました。 しかしその書流化により室町時代から和様書は形式化され、後期にはマンネリ化し沈滞してきました。 江戸時代になると幕府が公用書体に御家流を採用しまた寺子屋でも御家流を教えるようになったことから、書流はほぼ御家流一系となり庶民にも広まりました。

・世尊寺流
藤原行成に始まる家系を世尊寺家といい代々能書を輩出しました。 その世尊寺家の人々を中心とした書流を世尊寺流といいます。 17代で終焉となったのち持明院基春が継承し持明院流として江戸時代まで続きました。 世尊寺家6代伊行は日本最初の和様の書論書『夜鶴庭訓抄』を遺し、また7代伊経にも藤原教長から授かった秘伝をまとめた書論書『才葉抄』があります。

・法性寺流
藤原忠通を祖とする法性寺流が平安時代末期から流行し、九条兼実・九条良経らが継承し鎌倉時代中期まで流行しました。 九条良経の書は後京極流と呼ばれました。

・定家様
藤原定家の書風を定家様といいます。 定家は初め法性寺流を学びますが、その書は極めて個性的でやがて独自の書風を確立します。 家系の人々はその書風を継承しませんでしたが、300年後の室町時代後期に冷泉為和によって復活し、江戸時代には松平不昧、小堀遠州などの大名茶人も好んでこの書風を書き流行しました。

・宸翰様
天皇の筆跡のことで、鎌倉時代以降室町時代までの宸翰を特に宸翰様と呼びます。 鎌倉時代には伏見天皇が世尊寺流、上代様、空海の書を学び伏見院流を確立し他に後醍醐天皇による後醍醐院流、花園天皇による花園院流などがあります。 これを受けて室町時代初期の後小松天皇とその周辺の書は後小松院流と呼ばれ、室町時代中期から後期の後円融天皇から後土御門天皇までの書風は勅筆流と呼ばれました。 室町時代後期の後柏原天皇は特に能書でその書風は後柏原院流と呼ばれ、江戸時代初期まで続きました。

・青蓮院流(御家流)
尊円法親王は伏見天皇の第6皇子で、初め世尊寺流の世尊寺行尹・行房に書を学び、青蓮院流を確立しました。 この書流は江戸時代になって御家流と呼ばれ、明治時代になるまで日本の書道の中心的書風となりました。 青蓮院の門主によって代々継承されましたが、門主による書風を区別して尊円流(尊円法親王)・尊応流(尊応准后)・尊鎮流(尊鎮法親王)・尊朝流(尊朝法親王)・尊純流(尊純法親王)とも言います。

・大師流
書で名高い大師ということで空海の書を祖とした書流を大師流と称し、多くの人が空海の書を尊重しました。 例えば後宇多天皇は、空海の熱狂的な崇拝者であり、その皇子後醍醐天皇も父の感化で空海の書に関心を寄せています。 またその書を求めようとする人々もたくさんおり、豊臣秀次が『風信帖』の1通を所望して切り取ったり、後水尾天皇も『狸毛筆奉献表』の3行を切り取り宮中に留め置いたことなどがあります。 大師流について述べた『弘法大師書流系図』というものがあり、これによれば空海が渡唐の際、韓方明から後漢の蔡邕以来の書法を授かり、帰朝ののち嵯峨天皇等にこれを伝え、そして賀茂県主藤木敦直からその子孫に伝来したのだといいます。 しかしこれはかなり意図的な流れで、賀茂一流の人々が自分の書を権威あるものに見せるため、創作したものであることは疑いはありません。 しかし現実に大師流は存在します。 そして事実上の祖、藤木敦直が甲斐守を称するので甲斐流ともいわれ、また賀茂神社の県主でもあるため賀茂流ともいわれます。 藤木敦直の師は、先の『弘法大師書流系図』などから、飯河秋共、伯父の賀茂成定であることが知られ、敦直は、後水尾天皇から書博士の称号を賜りました。 その他の大師流の書き手といわれるのは、岡本宣就、狩野探幽、春深、寺田無禅、荒木素白、北向雲竹、鳥山巽甫、佐々木志津磨などがいます。 そして江戸時代には大師流はかなりの流行を見せました。 大師流は結局空海の書に基礎を置いていますが、そのうちでも『崔子玉座右銘』『七祖像賛』『益田池碑銘』など装飾性の強い書をさらに強調する特色があります。


日本の書道の歴史

images (5) 日本の書道は漢字の伝来に始まります。
それ以前に日本独自の文字の文化はなかったとされています。 神代文字で記した文献が存在したとの説が江戸時代から示されましたが、現在の学界では認められていません。 日本に漢字が伝来したのは弥生時代に遡りますが、その時代の日本ではまだ文字を本来の意味で使用することはありませんでした。 日本で作られた銘文を有する最古の遺物は5世紀前半ごろのもので、日本人は早くから漢字と出会いながらもその時期まで文字を必要としなかったのです。 そしてその遺物にはすでに万葉仮名の用法が見られ、書体は隷書から楷書への過渡期のものが使われました。 それらは朝鮮半島を経由した中国の文字文化が基本となっています。

・写経と晋唐書風の流行
つづいて仏教が伝来し、日本の書道は急速に発展します。 飛鳥時代の聖徳太子、奈良時代の聖武天皇によって写経が盛行し、国家事業として写経所が設けられて分業で制作されたのです。 また遣隋使や遣唐使により、中国文化が直接日本に招来するようになりました。 特に唐代は中国書道の黄金時代で、王羲之書法が最も尊重されていたことから日本で晋唐の書風が流行しました。

・和様の完成と墨跡の勃興に始まる書の二極分化
平安時代初期の嵯峨天皇は唐風を好み、入唐した空海・橘逸勢らとともに晋唐の書に範をとりましたが、これら三筆は中国の模倣だけに止まらず中国風を日本化しようとする気魄ある書を遺しました。 そして平安時代中期、唐の衰頽にともない遣唐使が廃止され国風文化の確立によって「かな」が誕生しました。 さらに三跡によって漢字が和様化され、和様書の完成期を迎えます。 この和様書は鎌倉時代から分派し、さまざまな書流を形成しました。 またこの時期に中国から禅僧が来朝し、日中両国の禅僧によって再び中国の書風が注入されました。 この禅僧による書は墨跡と呼ばれ、武士の趣向に合致して鎌倉時代の禅林の間に流行しました。 さらに室町時代に茶道が生まれて禅と結びつき、茶会の掛軸として墨跡が珍重されるようになり、江戸時代からは唐様として継承され発展。 一方、和様は尊円流が江戸幕府の公用書体として採用され庶民にも広まったそうです。 かくして日本の書は唐様と和様に二分されたのです。

・六朝書道の盛行と上代様の復興
明治時代に入り、この時代の実権者の多くが漢学の素養があったことから唐様の書風に傾いていきました。 そして清国の楊守敬が漢魏六朝の碑帖を携えて来日し、日本の書道界に大きな衝撃を与えこの影響により巌谷一六・松田雪柯・日下部鳴鶴らを中心に六朝書道が盛んになりました。 これにともない漢字は和様が衰頽し、唐様は六朝書によって革新されましたが、かなは明治時代中期に伝来の文化遺産の復古が叫ばれ多田親愛・大口周魚・小野鵞堂を中心に上代様が復興されました。 そして日下部鳴鶴と西川春洞を中心に今日の漢字書道界の基礎が造られ、かな書道界においては小野鵞堂が多くの門人を育成しました。

・近代書壇史の始まりと現代書の出現
大正時代末期、当時のほとんどの書家を結集させた書道団体が誕生し、年1回大展覧会を開催していました。 会名を「日本書道作振会」としたこの団体は豊道春海の尽力により結成し、ここに近代書壇史が始まりました。 そして離合集散の結果「泰東書道院」・「東方書道会」・「大日本書道院」の安定した大規模な団体の結成に至っています。 「大日本書道院」は日下部鳴鶴門の比田井天来を中心とする団体で、この天来の門弟たちによって現代書が出現します。


書道

images 書道または書とは、書くことで文字の美を表そうとする東洋の造形芸術です。
中国が起源ですが日本においては漢字から派生した仮名、ベトナムではチュノムなどが発明されそれぞれ独自の領域での創作も行われています。 文字ははじめ実用として生まれましたが、文化の進展につれ美的に表現する方法が生まれました。 この美化された文字を書といいます。 書道とは、この文字の美的表現法を規格あるしつけのもとに学習しながら、実用として生活を美化し、また趣味として心を豊かにし個性美を表現していくことす。 そしてその学習過程において、人格を練磨し、情操を醇化していきます。 よって書道は人間修養の一方法であり、古来、中国では六芸の一つとして尊崇されてきました。 書道は主に毛筆と墨を使い、その特徴を生かして紙の上に文字を書きます。 その技法には、筆法、間架結構法、布置章法がありそれぞれに様々な方法が編み出され、書体や書風などによって使い分けられています。 日本では昭和時代からの大規模な書道展の開催により、書道が近代芸術としての地位を確立したことから、その芸術作品としての創作方法も書の技法に加わりました。 これらの技法の習得には色々な教育機関を通じて書家に師事し、古典を中心に学習し書道展などに出品しながら技量を高めていくのが一般的です。 日本の代表的な展覧会である日展の第五科では、漢字、かな、篆刻、調和体の4領域が実施されています。


版画

img211 印刷を行う紙以外に彫刻や細工を施した版を作り、インクの転写・透写等によって複数枚の絵画を製作する技法やそれにより製作された絵画のこと。 版画はその版の仕組みから大きく4つに分類されます。凸版画、凹版画、平版画、孔版画です。 下記にてこの4つについて説明します。

◆凸版画
版の凸部に付いたインクが紙に刷られるもので木版画、紙版画、芋版画、リノリウム板を版材とするリノカットなど、一般にも一番制作経験があるものです。 江戸時代の日本で盛んに広がり、東洲斎写楽、葛飾北斎、喜多川歌麿など世界的に知られる浮世絵も木版画の一種で色ごとに版を使う多版多色版画です。

・木版画
木の板(版木)に表したい図柄を彫刻刀で彫って版を作り刷る技法です。 木材から版木を取る時の向きによって、板目木版と木口木版に分けられ、前者は主に日本で、後者は西洋で発達しました。 浮世絵も板目木版です。 輪郭線を彫り残す陽刻法と、輪郭線を彫る陰刻法がありますが、このどちらかだけで作品が作られることはまれです。

・コラグラフ
台紙に表したいものの形に切った紙などを貼り重ねて版を作り刷るもので、学校教育では主に小学校低学年で行われる技法です。 台紙は丈夫な板紙や厚めの画用紙が使われます。 画用紙を使う場合は、輪郭を手でちぎって丸い台紙にして用いることもあります。 版には画用紙の他、片ダンボール紙やレースペーパー、凹凸のあるシート類、さらには毛糸・ひも・布・落ち葉など、様々な素材が用いられます。 凸版画として扱われることが多いですが、版の凹部にインクを盛り凹版画として刷る手法もあります。

◆凹版画
版の凹部で図柄を構成する版画技法です。 西洋美術の世界では、もっとも広く用いられた版画技法でとりわけルネサンス期以降、銅を版材とする銅版画において多くの製版技法が開発・蓄積されてきました。 平版画や孔版画が未発達であった19世紀以前においては、単に版画といえば多くの場合に「銅による凹版画」を指していました。 銅が高価なため、今日では工業用や教材用としてポリ塩化ビニル板なども用いられていますが、美術作品としては依然として銅材によるものが多くあります。 凹版画の印刷手順はまず、版全体にインクを乗せたのちに、これを布などで拭き凹部にのみインクを残します。 あとはこの版と紙を重ねて圧力をかければ、凹部のインクが転写されて完成となります。 しかし製版の手順は、それほど単純ではありません。 版の凹部をどう作るかでいくつかの技法があり、大きく直接法と間接法に分かれています。 版に直接に凹部を刻む場合が直接法、酸などの浸食作用を利用して版面に凹部を作るのが間接法です。 単一技法による作品もあれば、併用される場合もあります。 下記では直接法としてエングレービング、ドライポイント、メゾチントを、間接法としてエッチング、アクアチントについて詳説します。

・エングレービングとドライポイント(直接法)
直接法としてまず、エングレービングとドライポイントについて詳説します。 エングレービングでは、ビュランと呼ばれる道具で溝を彫って図柄を作っていきます。 ビュランとは、V字型の刃をもった彫刻刀(三角刀)のような道具でその削りくずは彫りだされ、版上には残りません。 これに対してドライポイントでは、 先の尖ったきわめて硬度の高いニードルなどで版に線描します。 ドライポイントは基本的に版にキズをつけるだけなので、削りくずは線の周辺に突き出たまま残ります。 この違いは版の耐久性の違いとなって現れます。 凹版画とは版上の紙に強い圧力をかけてインクを転写する技法です。 エングレービングは凹部以外の版面はフラットなので、多量の印刷を経ても版が劣化しにくくなっています。 紙幣の印刷にエングレービングが用いられるのはそのためです。 ドライポイントの場合は、刷れば刷るほど線の周辺の突起部が押さえつけられ、次第に線がつぶれてきます。 印刷の少ない版であれば、線の周辺の突起部にわずかにインクが残るため線に微妙な陰影がつきますが、印刷が進むほどに線はより単調により弱々しくなっていきます。 早い段階での印刷かそうでないかで、作品の印象も価値も違ってくるのはすべての版画の宿命ですが、ドライポイントはとくにそれが顕著に出てきます。 エングレービングとドライポイントの長短は、版の作りやすさという点では逆転しています。 エングレービングの大家を挙げる場合しばしばルネサンス期のデューラーまでさかのぼりますが、そもそも美術史上でエングレービングに長じた作家は限られています。 ドライポイントはそれに比べれば、デッサンの技量が確かなら習熟しやすく、製版時間も短くなります。 それでも、溝の深さのコントロールや「ささくれ」「まくれ」による線の陰影まで計算した製版ができるまでには修練が必要です。

・メゾチント(直接法)
エングレービングとドライポイントが線の表現のための技法であるのに対し、メゾチントは面の表現力を深める技法です。 ヨーロッパでまだ写真技術のない頃、肖像版画や細密版画で用いれられ人気がありましたが、写真の発達とともに省みられなくなり「忘れられた技法」といわれることもあります。 その製版工程はこれまでの技法と逆です。 エングレービングとドライポイントでは平面の版に溝を刻むことで図柄を作っていきますが、メゾチントでは版全体にひじょうに細かな点や線を無数に刻んでざらつかせ、その後にこの「目」を削って平面をつくっていきます。 目立てだけを施した段階で印刷にかけると、全面が真っ黒の版画が出来上がります。 ただし真っ黒とはいえ、それは細かな点や線の集積なので、均一な黒ではなく微妙な陰影が出ます。 目立ての粗密を調整すれば面のニュアンスも変わるし、また目をならす段階でもどの程度もとの目を残すかで刷り色の濃淡を調整出来ます。 きわめて労力がかかるので普及に限界のある技法ではありますが、日本には浜口陽三や長谷川潔などメゾチントを得意とする作家が多くいます。

・エッチングとアクアチント(間接法)
エッチングとは銅版を防食剤で一面にコーティングしたのち、ニードルで線描し酸に浸して腐食させる技法です。 ニードルで防食剤を剥がした部分だけが浸食され、それが版の凹部となり、最後に防食剤を洗い流して版が完成します。 レンブラントはエッチングを好んで制作した最初期の作家で、ほかの銅版画技法と併用するなど、意欲的にその表現可能性を拡大しました。 凹版画のなかでは特殊な技能をもっとも必要としない技法なので広く普及しています。 有名画家が「手ごろな」価格の作品を提供するためにエッチングを手がけることも多くあります。 エッチングが線の表現技法であるのに対し、アクアチントは面の表現技法です。 アクアチントは防食剤を粉末状にし、銅版面が半分ほど露出する程度に銅版に振りかけます。 松脂が降りかかった銅版を裏から熱して銅版に定着させ、腐蝕液で腐蝕する事によってざらざらな面を作ります。 濃淡は腐蝕の時間で調節します。 また、松脂を振りかける量でもニュアンスが変わって来ます。 アクアチントの応用技法とされるものにシュガー・アクアチントがあります。 これは、水が半偶発的に作る形状を定着させる技法で飛沫や水玉など特殊な模様をつけるためにもよく用いられています。 その工程はまず、銅版面に砂糖水を撒いたり筆で広げたりして模様を作ることから始まります。 続いて、砂糖水を乾かして定着させ、そのうえから防食剤を塗り重ねます。 これを温水に浸すと砂糖のうえの防食剤は砂糖が溶けるとともに剥がれ落ち、版面が露出します。 あとはこれを腐蝕の工程にかければ砂糖水による模様が版面に刻まれます。 水溶性のものであれば砂糖でなくとも代替出来ますが、砂糖はその濃度を調整すると適度に粘り気が出て模様をコントロールしやすいですし、なにより安価です。

◆平版画
石版画、リトグラフと呼ばれているもので油が水をはじく原理を利用しています。 1798年頃アロイス・ゼネフェルダーが偶然から原理を発見し、以降ロートレックなどの画家が斬新で芸術性の高いポスターをこの方法で描いていました。 以前は巨大な石に描いていましたが、近年は扱いやすいアルミ板を使うことが多いです。 専用のアルミ板などに油分の強いチョーク、クレヨン、油性のペンシルなどで描き、アラビアゴムや薬品を塗って版を作ります。 注意する点は版にインクを塗る際、版が常に水で濡れていなければならないことです。 紙に刷る度に、インクと水分が紙に移るので版にインクを盛る前に必ず水で版を濡らす必要があります。 そうしないとすぐに白いままにしておきたい部分にインクが付いてしまい版が駄目になってしまいます。

◆孔版画
インクが通過する孔とインクが通過しないところを作ることで製版し印刷する表現方法です。 ステンシルが孔版画の特質を表していますが、現在ではシルクスクリーンが一般的で製版された版にスキージと呼ばれるゴムへらのようなものでインクを紙へと押し出します。 シルクスクリーン製版法は様々で、切り抜かれた型紙をスクリーンに貼り付けるカッティング法、直接、スクリーンに乳剤を塗りつける直接法、特殊な描画材で描いた上に乳剤を塗りつけ、描画材の部分のみを剥離させる直間法などがありますが、現在もっとも一般的でなのは、露光でスクリーンに定着する感光乳剤を利用する写真製版法です。 長く商業印刷として利用され、版画表現としては歴史が浅く50年代後半以降、アメリカ、ネオダダイズムの作家、ロバート・ラウシェンバーグ、ポップアートの作家、アンディー・ウォーホルらがシルクスクリーン版画作品を積極的に発表して以来、芸術メディアとして認知されるようになりました。 日本人作家では、東京国際版画ビエンナーレで注目された木村光佑、木村秀樹などが代表的でまた横尾忠則などのデザイナーによる表現も活発でした。


水墨画

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 「墨」一色で表現される絵画で、墨線だけでなく墨を面的に使用し、暈かしで濃淡・明暗を表します。 中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には文人官僚の余技としての四君子(松竹梅菊)の水墨画が行われました。 また、禅宗の普及に伴い禅宗的故事人物画が水墨で制作されています。 明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨雑画も描かれていたそうです。 日本には鎌倉時代に禅とともに伝わりました。 日本に伝わった絵画は『達磨図』・『瓢鮎図』などのように禅の思想を表すものでしたが、徐々に変化を遂げ「山水画」も書かれるようになりました。 墨一色で表現した絵画は日本では正倉院宝物の「墨画仏像」のような奈良時代の作例があり、古代から制作されていました。 しかし、美術史で「水墨画」という場合には、単に墨一色で描かれた絵画ということではなく、墨色の濃淡、にじみ、かすれ、などを表現の要素とした中国風の描法によるものを指し、日本の作品についてはおおむね鎌倉時代以降のものを指すのが通常です。 着彩画であっても水墨画風の描法になり、墨が主、色が従のものは「水墨画」に含むことが多くあります。 平安時代初期、密教の伝来とともに仏像、仏具、曼荼羅等の複雑な形態を正しく伝承するために、墨一色で線描された「密教図像」が多数制作されていました。 絵巻物の中にも『枕草紙絵巻』のように彩色を用いず、墨の線のみで描かれたものがあります。 しかし、これらのような肥痩や濃淡のない均質な墨線で描かれた作品は「白描」「白画」といい、「水墨画」の範疇には含めないのが普通です。

ダウンロード (1) ◆初期水墨画
中国における水墨画表現は唐時代末から、五代~宋時代初め(9世紀末~10世紀)にかけて発達しました。 中国の水墨画が写実表現の追求から自発的に始まったものであるのに対し、日本の水墨画は中国画の受容から始まったものです。 日本における水墨画の受容と制作がいつ頃始まったかは必ずしも明確ではありません。 すでに12世紀末頃の詫磨派の仏画に水墨画風の筆法が見られるが、本格的な水墨画作品が現れるのは13世紀末頃で中国での水墨画発祥からは4世紀近くを経ていました。 13世紀末から14世紀頃までの日本の水墨画を美術史では「初期水墨画」と呼んでいます。 水墨画がこの頃盛んになった要因としては、日本と中国の間で禅僧の往来が盛んになり、宋・元の新様式の絵画が日本にもたらされたことが挙げられます。 13世紀になり、無学祖元、蘭渓道隆らの中国禅僧が相次いで来日。 彼らは絵画を含め宋・元の文物や文化を日本へもたらしました。 日本の初期水墨画は、絵仏師や禅僧が中心となって制作が始められました。 師資相承を重視する禅宗では、師匠の法を嗣いだことを証明するために弟子に与える頂相や禅宗の始祖・達磨をはじめとする祖師像などの絵画作品の需要がありました。 この時期に制作された水墨画の画題としては、頂相、祖師像のほか道釈画、四君子などが主なものです。 なお、水墨画と禅宗の教義とには直接の関係はなく、水墨画は禅宗様の建築様式などと同様、外来の新しい文化として受容されたものと思われます。 鎌倉時代の絵巻物に表現された画中画を見ると、当時、禅宗以外の寺院の障子絵などにも水墨画が用いられていたことが分かります。 14世紀の代表的な水墨画家としては、可翁、黙庵、鉄舟徳済などが挙げられます。 可翁については作品に「可翁」の印が残るのみで伝記は不明ですが、元に渡航した禅僧の可翁宗然と同人とする説が有力です。 黙庵は元に渡り、同地で没した禅僧です。 鉄舟徳済は夢窓疎石の弟子の禅僧で、やはり元に渡航していました。

sessyu ◆室町水墨画
室町時代は日本水墨画の全盛期と言ってよい程盛んな時代でした。 足利家が禅宗を庇護したこともあり、禅文化や五山文学が栄え、足利家の寺である京都の相国寺からは如拙、周文、雪舟をはじめとする画僧を輩出しました。 8代将軍足利義政は政治を省みませんでしたが、文化の振興には力を入れ唐物と呼ばれる中国舶載の書画、茶道具などを熱心に収集・鑑賞しました。 当時の日本で珍重されたのは、中国・南宋時代の画家の作品で、夏珪、馬遠、牧谿、梁楷、玉澗らが特に珍重されていました。 牧谿、梁楷、玉澗などは中国本国よりも日本で評価の高い画家です。 なお、室町時代の日本画壇が水墨画一色であったと考えるのは誤りで、この時代には伝統的な大和絵の屏風も盛んに描かれていたことが20世紀後半以降の研究で明らかになっています。 日本の水墨山水画のうち、最も初期の作とされるものは、「思堪」という印章のある『平沙落雁図』です。 画面下部に「思堪」の朱印があり、これが画家名と思われますが、その伝記等は不明です。 この『平沙落雁図』にはまだ水墨画の画法をこなしきれていない稚拙な部分があり、遠近感の表現なども十分ではありません。
それから約1世紀を経た応永年間(15世紀初頭)に、「詩画軸」と称される一連の作品が制作されます。 「詩画軸」とは、「詩・書・画一体」の境地を表したもので、縦に長い掛軸の画面の下部に水墨画を描き、上部の余白に画題に関連した漢詩を書いたものです。 15世紀前半に制作された詩画軸の代表作としては他に『渓陰小築図』『竹斎読書図』『水色巒光図』などがあり、絵の筆者についての伝えもありますが、確証はありません。 この時期の詩画軸は「書斎図」と呼ばれる山水に囲まれた静かな書斎で過ごす、文人の理想の境地を題材にしたものが多くありました。 この時代にはようやく画人の名前と個性が明確になってきます。 相国寺の画僧であった周文は幕府の御用絵師としての事績が文献からは知られ、詩画軸、山水屏風などに「伝周文筆」とされる作品が多数残っていますが、確証のある作例は1点もないそうです。
15世紀の後半には水墨画家としてのみならず、著名な画家の一人である雪舟が登場。 雪舟は備中国(岡山県)の出身で地方武士の血を引くと言われています。 上京して相国寺の僧となりますが、後に大内氏を頼って山口に移住。 応仁の乱の始まりと前後して中国・明に渡航、足掛け3年滞在して帰国。 帰国後はもっぱら地方を遍歴して制作し、80歳代まで作品を残しています。 雪舟は明応4年(1495年)、76歳の時弟子の宗淵に与えた作品『山水図』の自賛に「自分は絵を学ぶために明に渡航したが、そこには求める師はいなかった」と記し、先輩に当たる如拙や周文の画業をたたえていました。この自賛は日本の画家が自らの画業について語ったものとしては最古のもので、日本人画家としての自負が窺えます。 雪舟は多くの弟子を育成し、彼らの中には秋月、宗淵などそれぞれの出身地に帰って活躍した者もいました。 こうした面でも、雪舟が日本絵画に与えた影響は大きかったようです。 室町時代には、地方にも多くの画人が現れその多くは武家の出身でした。 その代表的な存在が、常陸国太田の武家出身の画家・雪村です。 雪村は後に出家して画僧となり関東地方と会津地方で80歳代まで制作を続けていましたが、その作品には武家の出身らしい気迫のこもったものが多くありました。 この時代には他にも多くの水墨画家がおり、足利将軍家に仕えた「同朋衆」の阿弥派一族(能阿弥、芸阿弥、相阿弥)も水墨の作品を残しています。